『森が呼んでいる (前編)』

北欧 フィンランドからの手紙

フィンランドは森と湖の国と呼ばれる。湖の数は18万とも言われるし(定義も数を調べる手順もないために、正確には数えられないらしい)、国土に対する森林面積は世界一位、73%が森林に覆われている(ちなみに世界平均は30%)。

人々の暮らしの中で森は身近な存在だ。特に夏はほぼ全ての人が湖畔や海辺のサマーコテージへ行き、森の中での散歩を楽しむと言っても過言ではないだろう。春には野草を摘み、夏にはベリーを摘み、秋にはきのこを摘む。秋から冬にかけては狩りをする人もいる。首都のヘルシンキにさえ森はある。気が向いたらトラムやバスで簡単に森や離れ島に行って自然の中に身を置くことができる。隣のエスポ―やヴァンター、シポーなどに行くと、広大な森がいくつもある。首都圏に住んでいても森が近くにあるというのは、なんて恵まれた環境だろう。

フィンランドでは気分が落ち込んだり、倦怠感に襲われたり、人間関係の悩みが生じたら森に行くという人がとても多いという話もどこかで読んだことがある。研究によれば、人はひとたび森の中に足を踏み込むと、5分もしないうちに精神的にも肉体的にも癒されるのだそうだ。フィンランド語には”metsäterapia"(森セラピー)という言葉もある。

森を歩くときは、木々が放つ匂いを思いきり嗅ぐようにお腹の中に空気を吸い込む。調べてみたらこのなんとも言えない爽やかで甘い匂いは、植物の代謝物質の一部であるフィトンチッドから来ているとか。ストレスの原因や鬱、疲労に効果があり、血圧・心拍数の安定や免疫力の向上も期待できるという。

森に行って深呼吸をする。木々の表皮や葉の形、花や虫を観察する。足元の土の柔らかさを確かめる。無数にある石をひょいと取り上げてみて、手触りを確かめたり、形を愛でたりする。背高い木々の隙間から軽やかに差し込み落葉の上にこぼれる木漏れ日に気がつき、ふと空を見上げる。爽快に流れゆく雲を見つめて、風の速さを感じる。こんなことを心のゆくまましていると、次第に暗雲がたちこめていたはずの心はすっきり軽くなっている。

森に入る前と後では心理状態が全然違う。それは、映画館で映画作品を心の底から楽しんで映画館を後にする時の、あの清々しさにとても似ている。

フィンランドに移り住む前、東京に住んでいた時は週に2~3回は映画館で映画を観ていた。一日中働いて頭も気も使ってヘトヘトで、失敗を頭の中で反芻したり、やらなくてはならない課題も山積み、そんな時こそわたしは映画館に足を運んだ。映画館で過ごす2時間はマッサージを受けるよりリラクゼーション効果があった。ドラマ、アクション、ドキュメンタリー…目の前で繰り広げられる、自分が生きている世界とは全く違う世界の話。普段は自分の抱えている毎日のあれこれで頭がいっぱいになっていて思いを巡らせることがなかなかないけれど、確かに存在している問題や人生。誰かの視点や誰かのストーリーにどっぷりと浸かって、ふと日常に戻ってみると、大抵の悩みや不安、愚痴は吹っ飛んでいた。もしかしたら単に楽天家な性分なだけかもしれないけれど、映画館から出た後はいつも、出る前に比べて心が軽くなっていた。2時間の小旅行。視点を変える小さな旅。森にも似たような効果があると思う。日常のいざこざやモヤモヤからふわりと引き剥がしてもらえるような、少し距離を取ってみると、わたしの人生もそこまで悪くないんじゃないかって思えるような、ひと息ついて、新しい気持ちで明日に取り組めるような、そんな効果が。

森は、お金を払わなくても足を伸ばせばいつでもそこに佇んでわたしたちを待っている。太古の昔から、数百年、数千年とそこに存在し、たくさんの生命を温かく育んでいる。わたしたちはその神秘や治癒力を、五感を駆使して全身で体感できる。身体を動かすので映画に比べて健康的なリラクゼーションでもある。

(後半に続く)



写真・文 : 吉田 みのり

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