『サマーコテージでお皿を洗うという行為』

「北欧 フィンランドからの手紙」

わたしは数ある家事の中でもお皿洗いが大好きだ。昔、寿司屋で約2年間皿洗いのバイトをしていた。1時間1000円、18歳の右も左も分からない大学生にとっては割のいいバイトだったと思う。しかも、住んでいたマンションの1階にその寿司屋はあったのだ。通勤時間は15秒、それでもたまに遅刻した。お皿をひたすら洗い続ける4時間を週に3日、2年間繰り返すという行為はわたしに色々なことを教えてくれたと、後になって思うようになった。「効率的かつ完璧に食器を洗うとはどういうことか」「自分の手で汚れを落とすとはどういうことか」「台所を美しく保つとはどういうことか」などなど。今でも食器洗いほど抵抗なくできる家事はない。誰かの家に招待になった時など、ご飯を御馳走になった後には積極的にお皿洗いを申し出る。友だち同士だと「えっ!!いいの!?わたしお皿洗うの大嫌いなんだけど!」と結構喜ばれたりするけれど、いいのいいの、面倒だから、と丁重に断られたりもする(少し寂しい)。わたしからしたら「趣味」といえるほどではないけれど、結構その一歩手前くらいに好きな行為なので、気楽にお礼ができる方法のひとつだ(むしろ御馳走になったのだから完全にお言葉に甘えて、お皿洗いなんて申し出るべきではない場もあるとは思うが)。そして、自分で言うのも難だけど、通常の人より速く、丁寧に、そして洗い残しなく洗える自信もある。なんせ皿ばかり洗ってきたのだ、2年間も。

お皿を洗う時の、手に水が当たる感じが好きだ。自分も清潔になった気がする。足湯に入っている感覚にも似ていると思う。洗っている間、集中はしているものの他のことを考えられるあの時間も好きだ。食後にタバコを吸って落ち着く人がいるように、わたしは食器を洗うことでひとり考え事をしてリラックスをしていると言っても言い過ぎではないかもしれない。

ところで、イギリスではお皿の洗い方が日本とは異なるということを20代のはじめに本で読んだ。日本では「流し」と呼ばれるものが、英語では「シンク」と呼バレるように、イギリスでは流し台に水を溜め、洗剤を入れ、そこにお皿を沈め(シンクす)る。水の中でブラシで洗い、そのまますすがずにお皿を乾燥ラックに立てる。時間が経てば泡は下に流れ落ちて、お皿は乾く。それを次の食事で使用する。日本人にとっては「ええっ。ゆすがないの!その上に食べ物を乗っけるの!」と抵抗感がある人もいるかもしれないが、イギリス人にとってはこれが当たり前の洗い方。日本人のように流水を使ったりはしないのだ。という内容だった。

フィンランドのほとんどの家では食器洗い機が設置されているので、普段はあまりお皿を洗う機会がないが、それでも木製や手作りの陶器や漆器などのうつわや鍋、包丁などは毎日手で洗う。そしてたいていの場合、フィンランドでは食器を洗う時、スポンジではなく長い柄の先にプラスチックのようなたわしがついたブラシで洗う。手を汚さない上にカラフルな色合いでまさにロジカルなデザイン大国、とかつては感銘を受けたが、汚れが落ちたかどうか直接指や手のひらで確認できないのがとてももどかしい。柄が長い分そこまで力を入れられないので上手に洗えず、こびりついた汚れなどは結局爪や指の腹などで洗うことになる。思えばこの国は台所のタイルなどもモップで拭く。立ったままササっと掃除できるのでやっぱり合理性を重要視する文化ならではだが、わたしは結局捨てていい布などでしゃがんで雑巾がけをしないと気が済まない。手に、汚れを落としているという確かな感触を感じないと、掃除した気になれないのだ。汚れにコミットしてこその掃除。スポンジを握るその指の、その爪にかかるパワーでこびりついたパスタをこそげ落としたいというわたしの願望は「五人組」制度、「一億総中流」「赤信号 みんなで渡れば怖くない」などの日本人のメンタリティからきている…というのは考え過ぎだろうか。なんせフィンランドをはじめとしたヨーロッパでは、汚れと人間に距離がある。ブラシやモップの長い柄がそれを語っている。食器洗いのブラシやモップに、西欧の個人主義を見た気がするのだ。西欧では、他人と自分の境界線が薄い、そして汚れと自分の関係性にも乖離がある。責任範囲に明確な区切りをつけない、「なぁなぁ精神」の日本では、汚れと自分を結びつけてしまうのか。だから冒頭でもお皿を洗っているときは自分も清潔になった気がするなんて書いたけど、自分と汚れが知らぬ間に同化してしまっていた。毎朝社員に便器を手で洗わせる社長が生まれる土壌で生まれ育っただけあるわけだ…。

しかしフィンランドの夏、サマーコテージに行くと話は別である。食器洗い機どころか水道さえないので、サマーコテージでのお皿洗いは一層大仕事となる。まず、湖や井戸から水を汲んでくる。バケツ1~2杯を運ぶ。その水を鍋に移しオーブンの上に置くか、または電気ケトルで沸騰させる。さらに違うバケツの中に冷たい水と沸騰したお湯を入れて、ちょうどいい温度にする。次に、プラスチックのトレイを2つ用意する。両方にちょうどいい温度の水を入れ、片方に洗剤を入れて泡を立てる。そこに使った食器を入れ、その中で洗う。次にもう一つのプラスチックトレイですすいで、乾燥ラックに立てていく。これがとても楽しい。時間がとてもかかる。便利なものはどこにもない。なんか、洗ってる気がする。サマーハウスに来なければ食器洗い機に食器を放り込んでボタン一つでピカピカに洗えるのに、わざわざ車や電車やボートに乗ってサマーコテージにやってきて、ここで水道や電気のない暮らしをする。なんという非合理性。わたしはこの行為が好きでたまらない。そしてこの暮らしが好きでたまらない。非合理性の先には合理性がある。周囲の自然を守るため、自然の中で暮らして自然との調和をはかるため、都会の便利さから身を離しても十分に生きていけるという人間のたくましさをもう一度思い出すため。サマーコテージでは使える資源や物が限られていて余計なことはできないので、かえってすべてのことがシステマティックでプラグマティックだったりする。非合理性と合理性は二元論では語れないのだ。うーんポストモダン。そんなくだらないことを考えながら食器を洗う、この時間がとにかく好きなのだ。

お皿洗い好きは、キッチンで働くようになってからも役に立っている。キッチンの仕事は料理が主だと想う人もいるかもしれないが、掃除も大きな割合を占める。お皿洗いが大好きだと、一日中立ちっぱなしで料理してその都度洗い物をすることが苦ではない。大学生の時に、割りが良いなぁと思って始めたバイトだけど、20年後になっても全然使えている。とても小さなことだけど、お皿を洗いながら「あぁ、もう、本当に大好き」と思ったりしている。早く夏が来ないかな。サマーコテージでお皿を洗うのが待ち遠しいなぁ。

(この文章は、2014年に書いたものに加筆・修正をしました)



写真・文 : 吉田 みのり

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